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zoom RSS 小浜の梅田雲浜史跡巡り

<<   作成日時 : 2014/10/14 23:17   >>

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先日2回に分け、梅田雲浜の関連史跡を小浜で廻ってきた。
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幕末には、有名無名の先学は多いが、その筆頭は各々梅田雲浜、船越清蔵ではないだろうか?
雲浜は求めに応じ、松下村塾の看板に「松下邨塾」と書き、清蔵は松陰が藩への登用を進言したほどだった。
そんなことに思いを廻らしている折、たまたま雲浜のご子孫と知り合いにもなり、『梅田雲浜入門』という著書まで頂いてしまった。
年に2〜3回は福井の小浜・三方五湖に別件で行く用もあり、清蔵については別の機会に清末を廻るとして、雲浜の生まれ故郷を訪ねてきた次第。

今回はちょっと趣向を変えて、雲浜の生涯を、小浜の史跡で追ってみたい。
まずは、生誕地の矢部岩十郎義比屋敷跡
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雲浜は、文化12年(!815)6月7日、若狭国小浜藩士矢部岩十郎義比(よしちか)の次男に生まれた。従って、来年は生誕200年を迎える。

雲浜の最初の名は矢部義質、通称は源次郎。
のちに矢部家を出て独立し姓を梅田とした。
梅田の姓は、雲浜の祖父が梅田家から矢部家に養子にきたことに因み、名乗った。雲浜が養子になったのではない。
また雲浜を号としたのは、小浜の海浜を古来より雲の浜と称してきたことに因っている。

梅田雲浜先生誕生地碑
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大正10年(1911)、元雲浜村の有志により、矢部岩十郎義比屋敷跡に「贈正四位梅田雲浜先生誕生地」の木標が建てられる。
昭和6年(1931)、「梅田雲浜先生誕生地保存会」が設立され、「梅田雲浜先生誕生地」の石碑を建設した。
裏面に、「昭和六年五月 誕生地保存会建」とある。

梅田雲浜先生誕生地にある説明文
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雲浜は、8歳で小浜藩校の順造館で学び、15歳で京都の望楠軒へ進学し崎門学を学ぶ。
大手橋南詰にあった学問所跡に残されていた順造館の表門は、県立若狭高校の正門となっている。
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崎門学は、この頃の小浜藩の学問の系統で、朱子学の一派であり、尊王思想を内容とした。
16歳で江戸に遊学し、江戸の藩校で崎門学を受け継いだ山口菅山に10年ほど学ぶ。
同門には薩摩藩の有馬新七もいた。

26歳で江戸の遊学を終え一旦小浜に帰る。
矢部家から独立したのはこの頃のことである。
27歳で大津に出て湖南塾を開く。
この時の入門者に、大和五条の乾十朗がいる。

29歳の時、湖南塾を閉じて京都堺町通にある望楠軒の講主となる。

嘉永5年(1852)7月、38歳の時、海外列強が日本を窺う状況の中で、幕府批判をし海防強化を具申したところ、咎めを受け、藩籍を失い浪人となる。

尊王攘夷思想を持った雲浜は、翌嘉永6年6月のペリー来航後、本格的に勤王活動を開始する。
小浜市立雲浜小学校にはこの頃の東奔西走の旅姿の雲浜像がある。
昭和18年(1943)建立、作者は現在の若狭町に生まれた彫刻家松本庄吉
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雲浜小学校にある説明文
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嘉永7年(1854)1月、ペリー再来航のとき京都から江戸に急行し、松陰始め同志と日夜協議している。
この頃、2月2日付藤村弘庵宛ての書簡の中で、昨夜半夢に浮かんだ一首を披露するが、これが辞世と言われる。
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「君が世をおもふこころの一すちに
 わか身ありともおもはさりけり」
辞世の歌を刻んだ小浜公園の梅田雲浜歌碑は、昭和18年11月、梅田雲浜事蹟保存会により建立。

嘉永7年6月には水戸で武田耕雲斎などと面会し、また福井藩では村田氏寿などに面会・遊説している。
9月にロシア艦が大阪湾に入ると、雲浜はこれを討とうとする。
この頃の雲浜を髣髴とさせる小浜市立遠敷小学校の梅田雲浜先生像。
昭和17年(1942)建立。作者は松本庄吉
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この頃、雲浜の家庭は飢えと妻の病気に困窮していたが、十津川郷士の申出に応じてその状況を歌にした。
小浜市立遠敷小学校の歌碑 (梅田雲浜先生像の横)
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「妻臥病床児叫飢 挺身直欲当戎夷
 今朝死別与生別 唯有皇天后土知」
   妻は病床に臥し児は飢に叫ぶ
   身を挺して直ちに戎夷に当たらんとす
   今朝死別と生別と
   唯だ皇天后土の知る有り
病の雲浜の妻信子は、安政2年3月2日、29歳の若さでこの世を去ってしまう。

安政3年(1856)には長州に遊説し、坪井九右衛門、来原良蔵らに自説を説き、長州藩を動かすことに成功する。
このとき、松陰にも会い、松下村塾の額面「松下邨塾」を書いている。
小浜公園の「梅田雲浜先生之碑」 明治30年建立
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字は門人で生前親交のあった山縣有朋の揮毫。長州訪問後、久坂玄瑞、山縣狂介、伊藤俊輔らは上京のおりしばしば雲浜を訪ねている。

小浜公園の説明文
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安政4年〜5年には紀州藩、大和五条、十津川に遊説している。
そして、安政5年9月7日、京都町奉行所により捕縛される。
江戸に送られ、小倉藩主の小笠原邸に預けられるが、残念ながら安政6年(1859)9月14日に病死する。

小浜の松源寺には、雲浜の分骨を納めた墓が、雲浜の祖父、父など家族の墓とともにある。
来年生誕200年イベントではここ松源寺和尚が重要な役割を演じることが決まっている。
西津縦貫道路にある松源寺への案内版
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門前にある小さな銅像と説明文
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雲浜の墓
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父の矢部岩十郎義比のお墓(手前真ん中)
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さいごに
大手町中央公園の銅像
小浜市内の杉田玄白記念公立小浜病院の前にある
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昭和40年建立。小浜公園にあった銅像が戦争中に金属拠出されたため、県内外の募金により新たに建立された。
(参考:梅田昌彦『梅田雲浜入門』)


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