幕末散歩

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zoom RSS 米軍横須賀基地の幕末史跡

<<   作成日時 : 2012/02/06 18:26   >>

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先日、米海軍横須賀基地にて、日本で最も古いドライドックなどを見学する機会があった。
基地の歴史に詳しい日本語が達者な米軍人2人に案内いただいた。
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                   横須賀基地航空写真 
                   「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」が出典



横須賀基地の歴史は、
慶応元年(1865)、江戸幕府による横須賀製鉄所の建設開始まで遡る。
明治4年(1871)に最初のドックが完成し、横須賀造船所と改称され、
明治36年(1903)以降は大日本帝国海軍が横須賀海軍工廠として利用する。
   横須賀海軍航海砲術学校や横須賀海兵団、海軍工機学校、海軍病院、横須賀鎮守府、
   鎮守府文庫、海軍軍法会議所などの施設が置かれた。
昭和20年(1945)9月2日に、連合国軍を構成する米海軍が接収し、施設を使用し始める。
昭和27年(1952)4月28日に、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧安保条約)」の
   批准を受け、米海軍が継続して利用し、
現在は旧鎮守庁舎には在日米軍司令部と米海軍横須賀基地司令部がおかれ、事実上の第7艦隊の母港となっている。
  
案内によれば、
基地は、230ヘクタール、東京ドームの43倍の広さがあり、家族合わせて約二万五千人が暮らしている。
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基地は独立して生活ができるように、あらゆる施設が揃っている。
 ・生活施設
   住居は、司令官(大佐)、士官、下士官別に分かれ、多くのアパート群がある。
       広さは家族もいるため3LDK、4LDKと広い。
   保育所は、軍人の場合は産休6週間を過ぎてから預かる。
 ・教育施設は、小学校、中学、高校、大学があり、
        小学生1500人、中学生800人、高校生600人が在籍する。
 ・商業施設は、スーパーマーケット、銀行、ATM、自動車修理工場など生活環境としては何でも揃っている。
 ・文化娯楽施設は、図書館、映画館、将校/下士官クラブなど、
 ・スポーツ施設は、運動場、体育館、テニスコート、ゴルフ場など、
 ・ごみ処理用焼却炉も自前で備えている。
 ・交通は、歩行者・自転車が優先、信号は基地内にひとつだけある。
      自動車は日本国内と同じで左側通行、場所により40km、30km、20kmの速度制限があり、
      給油は、公用と一般用とでガソリンスタンドが分かれている。
          料金は、公用は無料で、一般用は日本の1/3程度
 ・刑務所 拉致被害者曽我さんの夫ジェンキンス氏も帰国後に3日間、入所していた。

ところで、横須賀は日本で一番トンネルの多いことで知られているが、
帝国海軍の時代に横須賀基地内から厚木迄のトンネルが掘られている。現在は入口をふさぎ使われていない。
このことは初めて知った。



今回の見学目的である幕末に造り始めた日本で最も古いドライドックと、その後のドックについては以下の通り。

江戸幕府は、開国すると海軍増強を意図し、西洋式の艦船の購入・建造を始めるが、艦船の改修・修理のためにドックが必要になってきた。
そのため近代的な製鉄所建設をもくろむが、その際、日本進出が英米に遅れた仏と、技術と資金の援助を仰ぎたい幕府との思惑が一致し、仏に建設を委託する。
勘定奉行小栗忠順、仏公使ロッシュなどは建設候補地の見分を行い、現在の横須賀の地を選ぶ。
慶応元年(1865)正月に製鉄所首長として上海から海軍技師ヴェルニーを招聘し、製鉄所を4年間・240万ドルで完成させるという約定書を結ぶ。
ヴェルニーは機械買い付けや技師確保のためにただちに帰国したが、幕府はヴェルニーの製鉄所構造案をもとに、横須賀の内海・白仙湾に跨る山地立坪11万坪の開墾と、その土石による内海・白仙・美賀保の三湾の埋め立てなどの大規模な土木工事に着手する。
このようにして、慶応元年に幕府によって横須賀製鉄所の建設が始まった。

なお、ヴェルニーが帰国している間、米国が巻き返しを図り、安価な浮きドック方式を提案するが、万延元年遣米使節がサンフランシスコの米海軍メアアイランド軍港などの見学で得られた「浮きドック方式は耐用年数が短い」との知見をもとづき、拒絶している。歴史の皮肉か、ライバルの仏のサポートで造られたドックを米海軍が今使っている。

そして慶応3年(1867)3月に、艦船を改修、修理する横須賀製鉄所内の主要施設としてドライドックの建設が開始される。
大政奉還により江戸幕府が倒れ明治政府が成立するが、横須賀製鉄所の建設は幕府時代と同様に進められ、明治4年(1871)1月に完成する。
                 明治3年、建造中の一号ドック 横須賀海軍船廠史より
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主体構造は石造で、全長123.002メートル、幅28.674メートル、深さ9.091メートル(ドック入口から200フィート地点)
なお、昭和11年(1936)6月に延長工事が行われ、約14.5メートル延長され、全長は137.502メートルとなる。
現在の横須賀海軍施設一号ドックとして、今でも現役で使用されている。
                 古写真と同じくドック入口から写す
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                 反対側から、ドック入口に向かって
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                 右側のコンクリート部分が延長工事された部分
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ドックは一つではなく、艦船の大きさ(たとえば今の戦艦、巡洋艦、駆逐艦など)毎に大中小の大きさのドックが必要となる。
そのため、一号ドック完成後、横須賀造船所と改称し、引き続き三号ドック、二号ドックが建設された。
一号ドックと三号ドックはヴェルニーなど仏人技術者のもとで建設が進められたが、二号ドックについては設計段階では仏人が携わったものの、実際の工事場面では横須賀造船所で技術を学んだ恒川柳作が総責任者となってドックを完成させる。
その後恒川は日本各地でドック建造に携わることになり、日本のドライドック建設の草分け的な存在となる。
なお、明治17年(1884)7月21日の二号ドックの完成式には、三吉慎蔵が御付を務める北白川宮能久親王が参列した。
主体構造は石造で、全長150.803メートル、幅31.768メートル、深さ11.415メートル
                   二号ドック、ドック入口に向かって
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横須賀造船所は組織改革などを経て、横須賀海軍工廠となり、日本の海軍力増強に伴い規模の拡大が進む。
そのような中、明治38年(1905)には軍艦の大型化に対応した四号ドックが完成する。昭和3年(1928)に艦艇のさらなる大型化などに対応するために延長工事が開始され、翌昭和4年(1929)に終了、さらに昭和18年(1943)から翌年にかけて再延長工事が行なわれた。
主体構造はコンンクリート/石造、全長240.497メートル、幅38.1メートル、深さ13.41メートル
                   四号ドック、ドック入口に向かって
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さらに大正5年(1916)には第五号ドックが完成した。
五号ドックは当時激しさを増していた列強の建艦競争の中、完成直後に延長工事が行なわれることになり、大正13年(1924)に延長工事は完成した。
主体構造はコンンクリート/石造、全長323.7メートル、幅49.99メートル、深さ15.24メートル
                   五号ドック、ドック入り口に向かって 船のメンテナンス中
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日本は昭和9年(1934)にワシントン海軍軍縮条約からの脱退を宣言し、昭和11年(1936)にはロンドン海軍軍縮条約からも脱退し、その結果激しい海軍の軍拡競争が行なわれることになった。
そのような中、昭和10年(1935)に大和級戦艦の建造および改修、修理が可能な大規模なドックとして、第六号ドックの建設が開始され昭和15年(1940)に完成する。
主体構造は鉄筋コンクリート、全長365.80メートル、幅67.50メートル、深さ17.00
                   六号ドック、ドック入口から写す
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六号ドックを使用して空母信濃が建造されたが、進水後呉海軍工廠へ回航される途中、米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没した。
                   空母 信濃
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空母信濃は、戦艦「大和」型3番艦として昭和15年(1940)5月に六号ドックで起工されたが、ミッドウェー海戦で主力空母4隻の喪失により、急拠空母として設計変更され、昭和19年(1944)10月19日に竣工した。しかし完全に工事を終ったわけでなく、横須賀軍港空襲が想定されたことから急拠呉軍港に向けて出港することになった。
昭和19年11月28日横須賀を出港したが、翌29日午前3時16分、遠州灘において米潜アーチャー・フィシュ号の4発の魚雷攻撃を受け、間もなく浸水が増大し潮岬南東約百浬で、午前10時57分に転覆沈没した。
この戦闘において艦長他791名が戦死、副長以下乗組員、工廠工員など1,080名が救助された。
                   そのとき信濃に19歳で乗船していた咸臨丸子孫の会の方と、六号ドックの前で
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終戦後、横須賀海軍工廠は連合軍に接収されることになり、一号から六号ドックもまた接収された。
昭和22年(1947)には米海軍艦船修理廠が発足し、一号から六号ドックではアメリカ海軍艦船の改修、修理が行なわれるようになった。
特に横須賀が米第七艦隊の事実上の母港として空母の配備が開始されると、信濃の建造に使用した最大の六号ドックでは米空母の改修、修理が行なわれるようになり、空母専用ドックとなる。

なお、一号ドックから三号ドックについては、海上自衛隊が艦船の改修、修理のために米海軍と共同で使用している。
 
参考:Wokipedia横須賀海軍施設ドック、
   横須賀海軍船廠史、
   幕末維新期の建設請負業者−横須賀製鉄所の建設と蔵田清右衛門
   岩瀬榮「信濃」について

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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です。

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コメント(9件)

内 容 ニックネーム/日時
ドックの歴史ありがとうございます。
初めて知りました、信濃建造、米空母も修理できる六号ドック、おおきいんですね〜
あこ
2012/02/06 21:21
あこさん、こんにちは
見学した日はJW(ジョージワシントン)が年1回のメンテナンスのために湾内で修理作業中でしたが、巨大な大きさでした。空母専用ドックとして六号ドックの長さは十分ですが、JWは幅が71.8m、ドックの幅は67.5m、入渠後の姿の確認をし忘れました。
寸心
2012/02/07 11:17
先日は有難うございました。
また、詳しく説明してくださり有難うございます、
あの、大きな空母が入るのですね、おどろきました。!!
タキじー
2012/02/07 17:23
タキじーさん、こんばんは
六号ドックは大きさには驚きました。
幅が67.5mなので全長52.16mの帆船あこがれが横にして入渠できますね。
空母専用ドックですが、ミッドウェイが入渠している写真は何枚も見たことがありますが、JWは残念ながらまだ見ておりません。
寸心
2012/02/07 20:06
最初の横須賀基地航空写真の分析・説明を忘れていました。
六号ドック(写真右側の上から1/3あたり)のゲートの扉船をタグボートで動かし、ドッグに海水が入っています。空母岸壁にいるミッドウェイがこれから六号ドックに入るところと思われます。
寸心
2012/02/07 23:13
こんにちは、航空写真の説明ありがとう。
拡大すると、ゲートが移動しているのがよくわかりました、
リアルタイムで航空写真が見れるのですか?
見かたを教えていただけないでしょうか。
タキじー
2012/02/08 16:07
写真は1983年のものです。ミッドウェイは1972年から1991年に横須賀を母港としていたため写真の空母はミッドウェイと想定しています。
Wikipedia横須賀海軍施設ドックに、国土交通省 国土画像情報として掲載されています。
寸心
2012/02/08 17:08
以前、横須賀に行って小栗とヴェルニーの頭像は見てきたんですが
ドックは米軍内だし、見る機会ってまずないだろうなと思ってたんで
見学されたのがうらやましいし、詳細なレポートありがとうございます!
まだ最古のドックも使用されているってのもすごいですね。

また貴重な取材レポと思うので、僕のブログでもこの記事を紹介させていただいて
よろしいでしょうか?
エノカマ
2012/02/14 00:57
エノカマさん、御無沙汰しています。
記事の紹介はOKです
幕末維新庵の新年会、米軍基地見学と重なり欠席しました。
次の飲み会で会いましょう。
寸心
2012/02/14 10:09

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