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zoom RSS 防長殉難者の顕彰

<<   作成日時 : 2011/10/27 19:49   >>

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10/23京都東福寺の塔頭退耕庵において、明治維新防長殉難者顕彰会の平成23年度総会ならびに法要が営まれ、初めて参列してきた。
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退耕庵は1346年に創建され、応仁の乱で荒廃したが、慶長年間(1596年−1615年)に寺持の安国寺恵瓊によって再興された。東福寺境内の北端に位置し伏見街道沿いの要所にあったため、幕末の鳥羽伏見の戦いの際には長州藩の本陣が置かれた。
その縁で、戦いで戦病死した長州兵のうち48名が退耕庵に葬られ、菩提所となっている。
門前右の石標は有志により明治44年に建てられ、その戦死者菩提所を示している。
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門前左の立派な石碑は、明治維新防長殉難者顕彰会により昭和36年に杉道助会長の時代に建立された。
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法要は、10時から戊辰殿において五十部泰至和尚による読経から始まり、出席者全員が焼香した。
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会長挨拶は安倍晋三会長が山口国体の開催と重なり出席かなわず、会顧問の神足泰弘関西山口県同郷会会長が代わりに行い、山口県関係者の挨拶が続く。
そのあと、例年の如く、詩吟・剣舞と京舞が奉納された。
          吟士 山田則夫、舞士 服部義静佳による「馬上偶成」(高杉晋作 作)
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          三弦 安達彰清、舞 篠塚瑞祥による京舞、頼山陽の詩を見事に舞った。
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記念講演は、吉川報効会隅善彦事務局長による「吉川経幹と長州征伐」
趣旨は、長州萩藩が禁門の変、第一次長州征伐など戦乱の中で埋もれることなく、慶応2年の第二次長州戦争に勝ち維新を迎えられたのには、正式な藩ではなかった岩国吉川家12代藩主経幹による懸命に宗家を助ける働きに負うところが大きい。長州の代理としてよく幕府との間を斡旋し、その任を果たした。その功により明治になって岩国藩主は大名として諸侯に列した。
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総会のあと集合写真を撮り、ただちに東福寺恵日山の南岳墓所に向かう。
途中の東福寺南の山門横に、維新戦役忠魂之碑がある。
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碑の裏には、伏見鳥羽役戦没志士人名として、48名の長州人の名前が刻まれている。
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東福寺南端の六波羅門を出て、すぐ左の坂道を上ると、右側に月輪南陵と仲恭天皇九条陵への参道入口がある。
この参道は、長州藩殉難者の墓石が整然と並ぶ墓所に通じている。
墓所は広い場所であり、中ほどに和文草書体で長州兵戦没者の功績を讃えた文字を刻む崇忠之碑が弧然と建っている。
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この碑の正面に、本来の墓所参道と入口門があるが、今日では御陵参道から進み裏から参ることが多い。

墓石群の周りは、2週間前に拝見したときは草が生え台風による折れ木が散乱していたが、きれいに清掃されていた。
墓地に葬られているのは、宇治川右岸千両松で戦死した石川厚狭介始め、慶応4年1月3日から5日に亡くなった人を主に48名、長州支藩出身者もいる。
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退耕庵和尚による法要があり、続いて全員が焼香お参りした。
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お参りの後、退耕庵にて直会があり、2時ごろに散会となった。


鳥羽伏見の戦いで本陣を構えた縁で退耕庵が菩提所になっている。
しかし鳥羽伏見の戦いで亡くなった防長の戦死者は48人だけではない。
なた、明治維新に至るまで、禁門の変などで亡くなった防長の志士は数多くいる。
明治維新防長殉難者顕彰会は、その趣旨とその名前から、幕末に京都で亡くなった防長出身の志士たちも含め、人名の判明した1,621名を慰霊・顕彰している。



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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
>岩国吉川家12代藩主経幹の宗家を助ける働き・・・
初めて知りました、ありがとうございます。
あこ
2011/10/27 21:00

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