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zoom RSS 長州毛利家の源

<<   作成日時 : 2011/06/28 23:55   >>

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兵庫県芦屋にある阿保親王塚と阿保山親王寺を訪ねてきた。
親王寺は、大阪龍馬会主催の史跡めぐりの中で、西宮砲台見学の次に立ち寄ったことがあったが、長州毛利家からみでもう一度お寺をじっくり拝観し、未見の親王塚にも参ってみたいと思っていた。

毛利家の先祖には、朝廷に仕えながら源頼朝から招聘され鎌倉幕府の開府に尽力した大江広元がおり、その四男季光が相模国毛利庄(今の神奈川県厚木)を領し毛利姓を名乗って家を興し毛利家初代となる。
大江広元を更に遡ると、平城天皇の皇子・阿保親王まで行きつくので、結局、毛利家は源氏平氏を祖とすべく系図を作成した多くの家と同じく遠祖を皇族としていることになる。
毛利家は参勤交代で江戸に上下する時は必ず阿保親王塚と菩提寺の親王寺に詣で浄財宝物を寄進したという。

                阿保親王塚への道標1
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                阿保親王塚への道標2
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                阿保親王塚  毛利家寄進の3対の石灯籠がみえる
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                説明板
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この阿保親王の墓については、江戸時代も末期に近付く頃、長州萩本藩の村田清風が幕府に提出するために調査したことがある。
当時、言い伝えでは、阿保親王の墓の所在地が河内国松原と摂津国芦屋の2説あり、そのため詳細に調査し、その結果を「阿保親王御廟詮議」にまとめ、摂津芦屋を阿保親王の墓として幕府に報告している。

山口県文書館の毛利家文書には、
「御家譜(阿保親王〜幸松丸)」   
     毛利家遠祖から元就の一代前(幸松丸)迄の系図
「阿保親王御廟詮議」文政7年(1824)
     摂州兎原郡打出村、平城天皇第三皇子阿保親王の廟修理に関して
「阿保親王事取集」 文政8年(1825)
     「摂州打出村阿保山親王寺一件」「阿保親王事」との合綴。
「阿保親王御陵墓事其外」
     毛利氏の遠祖阿保親王の御陵墓に関する各種文書記録。
「阿保親王一千年祭祀ニ付親王寺ヨリ差出候口上覚書写」
などなど、遠祖についての調査文書が多く残され保存されている。
    
ただ、阿保親王の墓のある場所は、最新の研究では、出土した鑑鏡(三角縁神獣鏡)と円筒埴輪の内面の削りからみて4世紀前半の円墳であり、阿保親王が51歳で亡くなった842年よりも500年ほど古い古墳であると分かっている。
つまり、この塚が阿保親王の墓とすると墓の中に墓を造ったことになってしまうが、東側に平安時代の四ツ塚、六ツ塚と呼ばれる塚があり、今ではむしろ阿保親王が葬られたのはそちら側ではないかと考えられている。
毛利家文書にも、「兵庫親王寺蔵石帯之図」として阿保親王御廟傍の四ツ塚から宝永3年発掘した石帯の石の写し図があるが、江戸時代から親王寺に詣でていた毛利家はその可能性を認識していたかもしれない。

いずれにせよ、元禄4年(1691)阿保親王850回忌を契機に、長州毛利家は墓域を大改修し、燈籠を寄進するなど、遠祖である阿保親王御廟の整備に努めた。この際に周囲の小墳を破壊してしまったらしく、その時に出土した円筒埴輪と鑑鏡の完形品、破片、装飾帯などの研究対象品は、親王の菩提寺である親王寺が所蔵している。

                 親王寺  旧西国海道浜街道に面している
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阿保親王の墓は、明治8年に宮内省の管轄になるまでは、親王寺が管理していた。
寺と阿保親王とのいわれは、親王寺によると、
「当寺は浄土宗知恩院末で、正式には『阿保山至誠院親王寺』という。
承和11年(844年)に、歌人在原業平の父として知られる阿保親王のご別邸の跡に、親王の御持仏であった慈覚大師の作と伝えられる阿弥陀如来をご本尊とし、親王の菩提寺として建立された。
阿保親王は当時の打出浜の景色をお気に召し、この場所にご別邸を営まれた。親王寺の沖を通過する船は、帆を降ろさなければ、親王の御魂が怒り、海が荒れ、船が転覆する、という言い伝えにもなった。阿保親王については、延暦11年(792年)に第五十一代平城天皇の皇子としてご誕生されたが、第何番目の皇子であるかは断定はできていない。親王は、資性温順謙遜で、文武の両道に秀で、歌の道にも堪能であられた。当寺縁起には芦屋庄打出村にて、承和9年(842年)に御年51歳でお亡くなりになられたと記されている。」
とある。

阿保親王は、平城天皇の皇子で三品の位にあったが、承和の変に際しての功績により死後、一品を贈位される。、後に大江広元は、家祖である阿保親王の「一品」の文字を図案化し「一文字に三つ星」の紋を考え用いるようになる。
この「一文字三つ星」紋は、毛利・寒河江・長井・那波らの大江氏系諸家の代表紋となり、萩本藩毛利家から分出した長府・徳山・清末などの支藩も「一文字に三つ星」を家紋とした。
但し、毛利本藩と支藩の別を明確にするため、「一」の字について、筆書体や角字としたり、尻上がりの一、尻下がりの一にするなどして、本藩と支藩の家紋は見た目に区別できるようになっている。
                 左から、萩本藩、長府藩、徳山藩、清末藩の家紋
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親王寺は、門、瓦などに「一天三光」と称する紋を頂いているが、図柄は「一文字に三つ星」紋と同じ。
寺は阪神淡路大震災で被害を受け瓦など建物は新しくなっているが、すべて同一の紋を付けている。
                      門
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                 寺務所
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                 菊の紋と一文字三つ星のある獅子口
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                 熨斗瓦に取り付けられた紋
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一方で、被害を受けた古い瓦が、庭に置かれており、その中に、長府藩の「一文字に三つ星」があった。
とすれば、参勤交代で江戸を上下した際に、支藩である長府藩も親王の墓と親王寺に詣でたに違いない。
                萩本藩の家紋のある鬼瓦
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                長府藩の家紋のある鬼瓦
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参勤交代では、田浦や三田尻から船に乗って多度津などを経由し、兵庫から上陸して、芦屋に参ったのであろうが、皇族を遠祖に持つことを強調するのは、当時どんな効果があったのか、調べてみるのも面白いかもしれない。

今回若干疑問に思ったのは、
親王寺の由緒書きによれば、阿保親王が亡くなった後、別邸の跡に建てられたという。
芦屋市経済課の作った阿保親王塚の説明版では、塚のあるところに別邸があったような記述になっている。
この二つは何か矛盾する。
確かに、阿保親王の別邸は河内にも京都にもあったらしいので、別邸は複数あったのではあろうが、芦屋市の説明板は何か説明不足の感がする。


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